戦前、石炭商で大儲けした松永安左ェ門は電力業界へと進出をはじめました。
まず、現在の九州電力の前身となる福博電気軌道を創設しました。
その後いくつもの電力関連企業との合併を行い九州で巨大な電力企業を作ることに成功しました。
松永安左ェ門による東邦電力の設立
九州で成功していた松永の会社は関西電気と合併することとなりました。
これにより東邦電力と社名を改め、九州から関西まで勢力を拡大しました。
その後も、東邦電力は東海地方へと進出。ついに東京までも勢力範囲を広げました。
東京では日本で最初の電力会社である東京電灯と熾烈な争いを繰り広げました。
これは電力戦と呼ばれ、不当な価格引き下げや敵対的な宣伝など今では規制されているような争いを繰り広げたのです。
最終的には東京電灯と合併をして松永安左ェ門は大株主の地位となりました。
戦争期の松永安左ェ門
戦争期に突入しようとしていた時代。
軍部は電気事業をすべて国有化しようと動きました。
これに対して自由競争こそ国の発展に貢献するという持論をもっていた松永安左ェ門は、真っ向からこの国有化の政策に反発します。
その反対もむなしく、「電力国家管理案」として国会を通過した電力事業国有化の政策は現実のものとなりました。
松永安左ェ門はそれに対して、電力事業の経営から完全に手を引きました。
戦後復興期の松永安左ェ門
松永安左ェ門は戦中、隠居生活送っていました。
しかし、欧米の電力設備や供給体制の進歩具合を知っていた松永安左ェ門は、日本は欧米に追いつくことはできないと確信していたようです。
戦後GHQの管理下に置かれた日本。
軍部のものとなっていた電力事業の民営化が進められました。
軍部とかかわりがなく、電力に精通している人物は松永安左ェ門以外にいませんでした。
松永安左エ門は電力事業者の分割を強く主張しました。
今の一般電気事業者は松永安左ェ門によって創設されたのです。
その後も、人材育成や研究所の設立など産業界に強い影響力を残した松永安左ェ門は1971年に95歳で亡くなりました。
強い意志を持って自分の考えを主張し、大きな影響力を持ち続けていた松永安左ェ門。電力の鬼は、日本の成長を真に願っていたのです。
参照元:http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/index.html